「私の男」感想 何にもなれなかった彼ら
久しぶりの読書は待ち時間がやたら長い皮膚科の待合室でのことだった。
わたしは暇つぶしの主体がスマホになってから読書がめっきり苦手になってしまっていた。
読書が苦手というか、本に没入できるほどの集中力がなくなった。
そんななかでも読書欲そのものはあまり衰えておらず、本は買うのになかなか読めずで積み本ばかりが溜まっていく日々で、「私の男」は直木賞を受賞した当時ではなく、だいぶ落ち着いたころに購入してそのままになっていた一冊。
そもそもわたしの蔵書のなかで一番美しい本は、同じく桜庭一樹作の「少女七竈と七人の可愛そうな大人」だと思っている。あれは、中学のときに表紙に一目惚れした。そのあとも桜庭作品をしばらく読み漁った時期がある。だから、桜庭一樹の文章って読み慣れているのもあって、物語に集中できるか不安になりながら表紙をめくったものの何の心配もなかった。
作家、というか、作家の文章との相性もあるのだろうと思う。物語の内容ではなく、その作者の文体との相性というか。学生時代とかなら、多少相性の悪い文章とも体力と勢いで読めたけど、読書力(仮)が衰えた今、慣れている相性のよい文章だから読みやすいのもあっただろうな。と思う。もちろん直木賞受賞作という作品そのものの魅力が第一として。
そういえば、最近断念した本ってわたしが初めて手を出す作家ばかりだったな。という発見。
そんなわたしの最近の読書事情はさておき。
さて、多少のネタバレも含みます。
「私の男」の一番好きなシーンは実は冒頭の、主人公花の結婚式前夜、私の男、淳悟が傘を盗んで花を迎えにくるところだ。あのシーンひとつで、花との関係と淳悟の人となりがわかるし、たぶん本編のなかで一番鮮やかな場面だから。
あとはなんとなくモノクロチックな、うすいベールを被ったような本心の見えない印象の場面が続く。でもそれがあってるから不思議だと思う。
原作では各章の語り手が変わる。意外だったのは、ただの名前があるモブ、むしろ花が社会に紛れ込むための道化にすぎないと思っていた、花の夫となる尾崎美郎視点の話があったことと、この尾崎も拗れた、まともだけれどまともじゃない人だったこと。破れ鍋に綴蓋じゃないけれど、花と結婚するのに、まあ、そういう人だからだなあという感じ。この人だから、花は一見、何の変哲もない夫婦になれる。それが幸せかはわからないけれど。
「私の男」は映画も見た。
映画を後にしてよかったと思った。たぶん映画を観てからではわたしは本を読まなかった。あの文章に触れられたのはよかった。
観る前にキャストを確認して、原作の印象から、浅野忠信はなんかイメージと違うな、と思っていた。もっとヒョロッとしていて、もっと立ってるだけでダメさと色気が漏れ出てるみたいな感じの人の印象があった。見始めたら全然気にならなかった。淳悟だった。
あと二階堂ふみは何なんだろうな、ああいう影があって掴めないけれど天真爛漫ぽさもある女の子をやらせると右に出る者はいないみたいな。ピアスを舐めてる場面、最高に小町さん視点で、大嫌いになれる魅力があった。大嫌いになれる魅力って変な言葉だけどこうとしか言えない。
近々観ようと思っている「劇場」の監督のトークをたまたまラジオで聞いたときに言っていたけれど、映画というのは原作が誰視点であろうが、映画として作品をつくると第三者視点の物語になってしまうという。たしかにそう。そうじゃない作品もあるだろうけれど、だいたいそう。
「私の男」も本来なら章によって語り手が変わるけれど、映画は当然第三者視点になる。でもピアスのシーンは、アラサーの女であるところのわたしが自分を一番重ねやすいという点もあるだろうけど、小町さん視点で、花のことが憎くてたまらなくなった。何なんだろうな、二階堂ふみ。
あと、原作では現代の花の結婚前夜と結婚式、その後から始まって、過去へと遡る形で、花と淳悟の関係が描かれていく。それが映画では時系列順になっていた。まあ、そのほうが分かりやすいのかもしれない。だけど、そのせいで映画の冒頭はちょっとキツかった。
花の罪のシーン、原作とセリフがちょっとずつ違うのだけれど、「そんなの神様が許さないんだよぉ!」に対するアンサーが「わたしが許す!」なのがあまりにも強かった。
淳悟と花は、家族で、親子で、男と女で、そして、そのどれにもなれなかった。
だけど、淳悟にとって花は神そのものだったかもしれない。花にとってもきっとそうだった。ただ淳悟は花の「私の男」だけれど、花は淳悟だけの女じゃなかった。いつかは離れることを互いにわかっていて、花はそうなっても生きていけるけれど、淳悟は無理だった。たぶん淳悟はそれも含めてわかっていた。家族も子も女も失った淳悟は花の前から消えるのは必然だったと思う。
日本の映画はたまに変な演出をするよな、というシーンがあったけれど、あの瞬間をもし、幸せと呼ぶのなら淳悟は幸せだっただろうと思う。花も。
彼らの幸せがそのさきにもあったのかは知らない。
淳悟がどうなったかも、花が映画の結末のあと、幸せになれたかも。
何もわからない。
彼らは、家族で、親子で、男と女で、でもそのどれにもなれなかった。
それでも、家族で、親子で、男と女で、この世のなかで互いに唯一の存在だったのだけは確かだ。