あしたのこと。

地方住みアラサーオタクの日常

ポメラユーザーになりました!

いや一年以上ぶりて。

 

ポメラとは事務用品で有名なキングジムさんから出ている電子メモのことで、

「ポケット・メモ・ライター」の略らしいんですけれど、書くことに特化した昔で言うワープロみたいな。

わたしが購入したDM200はポケットにはちょっと入らないサイズですが、それでもコンパクトでサッと文章が打てる優れものです。

PCだと起動に時間がかかるし、スマホだと長文打つには向かないし、という場合はかなり使えると思う。

ライターさんとか作家さんでも使ってる方がいらっしゃるらしいですし。

というわけで以下がポメラで書いた文章です。

ポメラ慣れも兼ねてしばらく文章打ちたいな~

 

ポメラです!
噂はかねがねといった感じで気になってはいたものの、外で作業するタイプでもないし、金額を見てわざわざ買うまではいいかな、と遠目に指を咥えて見ていたものの一つではあるのですが、やっぱほしいな~と久しぶりにネサフして見ていたら4万ほどだったものが、26,800円で買えるをことを知ってしまい……。
気づいたらうちにあった。
いや、昨日はまだいくらか冷静に家電量販店で一回実物を触ってからと思ってたんだけど、近くの家電量販店には置いていなくて、じゃあもう買っちゃうか!?最悪合わなかったら父にあげよ!というノリだけで購入、Amazonプライムありがとう翌日に届いて今です。
とりあえず、普段触ってるパソコンとキーの大きさが違うから、特に小指の感じに慣れるまでちょっと時間がかかるかもしれんな、というのと、ショートカットを覚えるまでがんばりたいけど、その前に飽きないかが少々心配といったところ。
画面の大きさとかは意外と気にならないし、わりと集中できそうなのは、まあまだ買ったばかりだからな。
起動の早さと持ち歩きしやすいサイズ感(小さい鞄だと入らないけど)はシンプルに魅力かと。
バッと開いてバチバチバチとなんか打ってバッと閉じられるのは簡単でいい。
ところで、他社の対抗機種も特にないせいかあまり金額が変わることってないように見えたんだけど、これだけ下がったのは後継機がそろそろ出るとかなんですかね?

 

1月のこと

壽 音曲祭のディレイ配信が終わってしまって哀しみのなか書いています。

おいでませ、2月。

 

珍しくちゃんと目標らしきものを立てたこと覚えてたからちゃんと記事を書いてるけど、1月の目標は

「体重を2kg落とす」

「手を綺麗にする」の2つでした。

体重計久しぶりに乗ったら誤差程度しか減ってなくて笑った。

これ、この状態が“通常”になってるパターンのやつだ……

ちゃんとしなきゃ痩せないやつ……

あと体重落ちにくくなってるな、とも思う。

2月に持越しです。

手は比較的綺麗なんだけど、一昨日SABONのスクラブしてから荒れそうな雰囲気がある。

今ケアちゃんとすれば大丈夫なやつ。

SABONのスクラブはめちゃくちゃいいです。

イイ女の匂いがするし、ツルツルになるし、すべすべになるし。

手でするから手荒れ族はその後のケアきちんとねって感じだけど、本来手の皮ってめちゃ丈夫だから、普通の人は普通のケアで大丈夫だと思う。

 

1月は気づいたら終わってしまってた感じでしたけど、この一年、仕事と家を往復するだけの何事もない生活を続けているからこれはずっとそう。

春先までは、まあ無理だなと思いつつ、来年6月あたりに舞台行きたいし、チケットもそろそろ出始めるんだけど、行けるんだろうか……

2月にやることは、とりあえず、最近買ったチェストの引き出しの取っ手を黒く塗り替える。

体重落とすのはまた考えなきゃな……

生活習慣を整えることからなんだろうけど、すでに0時過ぎてるし……

そういうとこだね

 

2021年のこと

2020年は、友人と会うとか推しを観に行くとかライブに行くだとか人生におけるささやかな楽しみの機会ばかり失って、かつ業務はアホみたいに忙しく、だいたいキレてるか、キレてるか、キレてるかみたいな1年でしたが、なんとか生き延びて新年を迎えました。

 

外出は控えていたものの、家(というか部屋)を整えたり、各種配信サービスや映画を見たりとそれなりにインドアな娯楽は楽しんでいたし。体重は増えました。

あ、そう、生活を整えるのが好きだなと気づいた1年でもあった。

いわゆる丁寧な生活みたいなことは無理なんだけど、自分の周りを自分の好きなもので心地よくする行為はすごく好きだな、と。

そのことに気づけたのは、2020年のあまり多くはない良かったことの一つな気がします。

 

さて、毎年新年を迎えたからといって、これといって目標を立てたりするタイプではないのですが。コツコツ積み重ねるといったことが一番苦手だし。

ざっくり今年は『やれることをやる』を指針に生きてこうかなあと思います。

やれないことはわりと割り切れるし。

 

あと1月は体重を2kg落とすのと、手のケアを頑張る……。

「体重2kg落とす」

ストレスが食に向かうタイプなので、最近たくさん食べているなあという時期が結構長く続いているなとは思っていたけど元旦に久しぶりにのった体重計が見たことない数字を出した。おめでとうございます!新記録です!!

卒論が終わらなさすぎてスティックパンとチキンラーメンしか食べてなかった大学生活の終わりごろにも出さなかった数字だった。新境地に至ってる場合じゃないのでさくっとまず2kgほど落としてそこから徐々に落とし続けたい……。

「手のケアを頑張る」

年中常に手荒れマンなんですけど、手が荒れてると全てのやる気をなくすのよね。だって何するにも痛いし、沁みるし。テンション下がるし。何もやりたくなくなるし。

皮膚科にも通っててケアすればちゃんと綺麗になるんですよ。で、治りかけるとケアをさぼるのでまた荒れるというサイクルの繰り返しなわけです。

この負のサイクルをいい加減ちょっと変えたい。

 

気が向いたら今月やりたいこととどのくらいできたかみたいなこと続けてこうかな~。

続けるの苦手だから無理そうだな。

 

しっかし、旅の予定を立てたいなあ……

 

「窮鼠はチーズの夢を見る」感想※ネタバレあり 自分の恋愛情緒の死を確認したと思ったら監督と感性が合わないだけかもしれない話②

友人の関ジャニの女と観てきた。

友人は村上担です。

 ネタバレと批判がこみこみです。

 

久々の映画館は、コロナ禍のせいでひと席空けての客入れとなってたこともあって、めちゃめちゃ快適でした。そもそも映画館という空間が好きなことを思い出した。

 が、作品の恋愛観が無理すぎて、開始30分くらいで早く終わらんかな……となっていた。

 家とかで友達と突っ込みながら見るなら耐えられたけど、静かに見なきゃいけない映画館という空間が仇となった。関ジャニの女に至っては若干寝落ちたシーンがあったらしい。どないよ。

 


9月11日(金)公開/映画『窮鼠はチーズの夢を見る』90秒予告

 

 めちゃめちゃ空気感はいいんですよね。

もう本当にめちゃめちゃ文句をつけるので、好意的に観た人は読まないでくださいね…… 

 

 

そもそも主人公がクズすぎて、は???が止まらなかった。

無意識に優しさと隙を振りまいて好意を集めてしまう奴。

それだけなら結婚なりなんなりで収まるとこに収まれば無害なんだけど、無意識好意収集者なうえに、流されまくりマンで誘われたらノッちゃう性格なので不倫もしちゃうわで倫理最低だった。

そんな大伴先輩に8年?片思いこじらせつづける今ヶ瀬もすごいけどやりかた~!あと何やかやあってくっついてからのメンヘラ気質も総じて一言で「めんどくせー!!!」だったので、これに順応できないわたしの恋愛情緒は死んでるんだな、と思いながら見てた。最近恋愛事のごたごたを見ると「めんどくせ~!」の一言で終わらせるのよくないね。

 

イケメンとイケメンの尻を見れますが、わたしはなぜかその前に家で「娼年」鑑賞を行い、さんざん松坂桃李さんの尻と情事シーンを見まくった後だったので、それに対しての感想はあまりないです。松坂さんより大倉くんの喘ぎ声のが好みだな、くらい。

 

冒頭、自転車をこぐ大伴先輩の尻のカット何?と思ったんだけど、今ヶ瀬目線だったってことか?とか、なんで今ヶ瀬の好意拒否っといて半同棲みたいになっとんねん……とか、元カノめちゃくちゃでしゃばるな……とか常に何かしらのストレスを抱えながら見てたんですけど、一回今ヶ瀬と別れたあと、部下と結婚することになってから、再び現れた今ヶ瀬にすがられるも拒否したはずなのに婚約者に隠れてヨリ戻してんの無理すぎて「は????」が止まらんかった。倫理。

 

環ちゃん(部下)マジで良い子すぎたのでただただ被害者だったの本当に何?って感じ。手を出さんといて欲しかった。というか、環ちゃんが実は常務の娘(内縁の妻との子)って発覚した次の次くらいのシーンで常務の葬式なの、作品の情緒がどうした?と思った。いきなり殺すな。せめて病気だったとか、事故とか何か理由を言いなさいよ。

 

大伴先輩と今ヶ瀬が別れるってなって海までドライブ*1したあと、大伴先輩は結婚して、後輩も何となく今までみたいに恋人を作ったりして、それぞれ心の隅に互いを抱えながら生きていくみたいなエンドならギリそっか。と思えた*2んだけど、そのあと結局婚約者に内緒でヨリを戻すし、感情と事象の連続性がなさすぎて、どうしたどうした???って思ってるうちに終わった。

 

しかも終わりも、大伴先輩はいつか後輩が戻ってくるのを待ってる、後輩は先輩を想いながら別の男に抱かれて泣く。みたいな。なんか、何かしらの結末を出してくれ……。

 

屋上で乳首当てゲームしてじゃれるのを近所の洗濯物干してるおばさんが目撃して目を見張るところと、初夜が明けて腰の痛みを抱えながらぎこちなく歩く大伴先輩あたりでクスっと笑ってたのがわたしと関ジャニの女だけだったり、ラストシーンであちこちから鼻をすする音が聞こえるものの感涙ポイントがマジで理解できなかったり、全体的に自分の情緒が死に絶えていることを自覚することとなった。自分が泣かなくても、このシーンのこういうとこで泣いてるんだなってのは理解できるじゃん、普通。*3

  

同じ作者の「失恋ショコラティエ」をかなりの初期段階で挫折したので、これ作者と恋愛観が合わんのやなと思ってたけど、原作ファンが、キャラとストーリーの掻い摘み方のせいで意味わからんことになってる!!!ってキレてるのも見たので、これ原作とわたしが合わないんじゃなくて、映画が合わなかったパターンのやつ?

 

でも、後輩の誕生日に生まれ年のワインを送って、また来年もあげるよって何気なく言ったりとかところどころ良いシーンだな、と感じるところはあったし、人間性とか倫理観はともかく、空気感は全体通してすごくよかった。

これは「劇場」にも言えることだけど、俳優陣の演技も雰囲気もすごく素敵だったんだよね。

「劇場」と「窮鼠」とで、一日で2度も自分の情緒の死を感じてしまったんだけど、どちらも同じ監督だったので、監督とわたしが合わない可能性が高い。なんか、良い映画っぽい雰囲気を作るのが上手いのかなって思った。

 

友人は環ちゃん以外の作中人物の誰の心情も理解できなさ過ぎて、途中から理解しようとすることも放棄して、(だかいち読みてえ)と思ってたらしい。

  

わたしも、(先日好きなBLアニメって記事で世界一初恋1位だったけどアニメちゃんと見たことないな、見よ。)とか考えてた。

 

 

だかいちめちゃめちゃおもろいよね。昔の純ロマアニメなんかは行為の最中の描写もそこそこあった気がするんですが、アニメだかいちは押し倒して暗転翌朝という描写だったのでギリギリトータカが抱かれていない可能性もワンチャン(そんなわけない)で、ルール的なものが変わったのかなと思いながら見てました。話が完全に逸れた。

 

窮鼠、エンドロール見ておったまげたけど、岩永さんどこにおった?ゲイバー?と思ったら最後の後輩くんの恋人?役らしい。

と、関ジャニの女に伝えたらそのシーンの記憶が消えてた。*4 

はー、次はコロナが明けた世界で友達と、大伴先輩にキレながら見たいです。

 

 

*1:この海のシーンも二人きりでいいのに他の人影があっていらなくない?って思った

*2:でもそのエンドだと同性愛は幸せになれないというメッセージを持ってしまう可能性もあるから、考え物なんだよな

*3:今考えるとキレてる原作ファンが憤りすぎて泣いてたのかもしれない

*4:脳が忘れたがっているらしい

「劇場」感想(※ネタバレあり) 自分の恋愛情緒の死を確認したと思ったら監督と感性が合わないだけかもしれない話①

タイトルが長すぎる。

「窮鼠はチーズの夢を見る」の感想も載せてたんだけど、長すぎるので分けました。

「劇場」は見たいと思いながら先延ばしにし続けていたら、推しも見たらしいとの情報を得たのでじゃあ観るか。となった。推しの力。

そもそも松岡茉優ちゃんの演技が大好きなんだよな。

ネタバレを多分に含みます。

 

 

劇場

劇場

  • 発売日: 2020/07/17
  • メディア: Prime Video
 

 

小劇団を立ち上げるも鳴かず飛ばずの永田と、ひょんなことから恋人になった純粋無垢な沙希。

そもそも出会いがそこから恋人になり得るの?世の中の恋人ってそんな?となったので、まずここで自分の恋愛情緒の死を感じてしまったんだけど、それはそれとして。

沙希の明るく朗らかで、怒りながら笑っちゃうような人柄に惹かれたのはあるとしても、一番は自分のことを尊敬してくれる気持ちよさだったのかなあと思う。表に立てば酷評ばかりの世界で生きるのは辛いし、沙希に寄りかかったのはその居心地のよさがあったんだろうな。そしてその自覚と負い目もあって、それでもちゃんとできない、上手くいかない自分も沙希は受け入れてくれるからずるずると寄りかかって。

本当に生粋の最低クズ野郎で、ヒモでいることに罪悪感を抱かないタイプならまた話は違っただろうけど、なんとなく負い目を背負ったままぬるま湯に浸かり続けてしまい、そのことをさらに負い目に感じる、そんな不器用なところが、正直非常に面倒な人間だなと思った。でもすごくわかる、そういう面倒で器の小さなところをわたしも持っている。

永田が友人と旗揚げした劇団おろかの舞台を作・演出するときの永田の名義は”永田X”なんだけど、これは誰でもなく、誰でもあることでもあるのかな、と思っている。

山崎賢人さんといえば、一時期実写化映画の主人公をやりまくってたイメージが強かったけど、髭生やしてぼろぼろの恰好してぼそぼそ喋るの、すごい似合っていて驚きました。

前半の永田は普通に最低だな、関わり合いたくないな、めんどくさいなって感じだったけど、後半、沙希に対して優しくなるところは、沙希以外の人間に対してはアレなもののわりと嫌いじゃなかった。

ただあれって、沙希が不安定になったことで、それまでの“沙希はちゃんとしているのに自分はちゃんとしていない”という負い目がなくなったから見せられる優しい面なんだろうな、と思っていて。

沙希については、えーとまず、この作品は永田目線で進むし、できれば映画館で見てほしいと言われる最後の仕掛けのこともあって(わたしは配信で見たけど薄々そんな気はしてた)、どこまでが沙希自身の本心か、というところは測りかねるところはあるんだけど、ラストの本心のような部分は沙希自身の言葉なのか、永田の想像なのかわからないけれど、永田を支えることで沙希も救われていた部分はたしかにあったのだと思う。

ただ搾取する側とされる側という関係というわけではなかった(周りの人間にとってはそう見えてたとしても)から。

自転車二人乗りのシーンが好きです。沙希はもう限界を迎えていて、お互いにこの関係が長くはないことに気づいていた。何も答えない沙希に、とつとつと思い出や幸せについて語る永田と後ろで静かに涙を流す沙希。不器用だったけれど、たしかに二人は幸せだった。

最後の、実家に帰って、実家の近くで勤めることになった沙希が、家の片付けのために東京に戻ってきたシーン、出会ったころのように天真爛漫に笑う沙希は永田の願いなのだと思う。たぶん彼らは再会しなかったのではないだろうか。そして、あのシーンでの沙希への独白も本人に実際に届けられたわけではなかったのだろうと思う。そうなると沙希の「いつまで経っても何にも変わらないじゃん。でもね、変わったらもっと嫌だよ」はどういう意味を持ってくるのだろうか、と思うと何もかも永田の独りよがりになるのかもしれないけれど、それは結果として沙希に届いたから、意味はあったのかもしれない。

「劇場」は永田の、あと劇団おろかの評価につながったのだろうか。満員の客席を最後に立ったヒロインは、もう一度誰もいない舞台を見て、静かに去っていった。それが恋人だった二人の終演でもあった。

 

ドラマ「私の家政夫ナギサさん」最終回感想 わたしが抱いたモヤモヤの正体

毎週決まった時間にアニメを見ることができないオタクになってからすでに数年経過している。

30分のアニメも見られないので60分(実質45分?)のドラマはさらにハードルが高くなってしまい、録画したものの見ないまま消した作品も多い。

そんななか、今期は「MIU404」と「ナギサさん」、「アンサングシンデレラ」を視聴した(「アンサングシンデレラ」は視聴継続中)。

「MIU404」は4話から、「ナギサさん」は友人の薦めで2話からの視聴となった。(「アンサングシンデレラ」は初回から見ている。たぶんこれらが同じ週だったのだと思う)

圧倒的に好きなのは「MIU404」で、基本的にドラマは全てTVerの見逃し配信を活用して視聴していたのだが、「MIU404」だけは最終的にリアルタイムで見たし、Twitter実況にも参加した。

「MIU404」の最終回もIFルートのあたりは初見だと一瞬意味がわからなかったが、作中でずっと触れてきた、誰がどういうきっかけでどういう方向に進むかわからない”スイッチ”や”選択”のことだと理解すれば、IFルートもあり得たかもしれないなかで彼らのこれまでの積み重ねと、彼ら自身の選択で迎えたラストはとても良かった。

「MIU404」は本当に素晴らしいドラマだったので、ぜひ見てほしいのだが、とりあえず「ナギサさん」の話をする。

 

「ナギサさん」も支持されたドラマで、最終回視聴率は「逃げ恥」に迫るほど、平均視聴率については「逃げ恥」を超えていたという記事も見た気がする。

支持される理由も何となくわかる。

母からの悪意なき「やればできる子」という呪いに始まる、「こうでなくてはいけない」という既成概念からの脱却、「こうじゃなくてもいい」という肯定はいつだって人には必要だ。

家事ができない女でもいい。

お母さんになりたいおじさんでもいい。

そこから「わたしはわたしのままでいい」という自己肯定ではなく、「だからこういう夫婦関係もありだよね」を終着にしたのがこのドラマなのだと思う。

もちろん、メイとナギサさんは「ありのままでいさせてくれる」関係だし、そこにも触れてはいるので、自己肯定は完了しているのだが、わたしにはこのドラマが提示してきた「こういう夫婦関係」が刺さらなかった。それだけなのだ。

「ナギサさんじゃなきゃダメなんです!」とメイは言ったが、それが「逃げ恥」終盤に出てくる”愛情の搾取”に思えたのが大きい。まあ、この時点では互いに愛情の有無を確認できていなかったのだけれど。

互いの好意を前提とすると、一見メイとナギサさんの利害は一致するように思える。

でも家事はナギサさんに全振りなわけで、ナギサさんは本業の家政夫サービス(本社に異動になるならデスクワークとかになるかもしれないが)とプライベートの家事の両方を担うことになる。それは果たして夫婦関係としてフェアなのだろうか?

いや、夫婦間のことは利害の一致だとか、フェアだとかで考えることではないのかもしれないし(フェアであるべきだとは思うが)、そもそも他人が口を挟むことでもないのだが。メイが下手に家事に手を出したほうがナギサさんの手間は増えるだろうし。

だけど、依頼主と家政夫ではなく、対等な夫婦という関係になったからには、メイがいくら家事がダメといっても互いに助け合うべきなのではないだろうか。家事という形じゃないところで助け合っているのだから、それでいいといえばいいのかなぁ?

仮にメイが家事の一部を負担したとしたら、メイは仕事に全部振り切れなくなるからメイが望む生活ではなくなってしまうんだよね、たぶん。

共働き家庭が増えるなかで依然として女性の家事負担が重い現代社会だが、家事負担が男女逆になっただけのエンドでこれは根本的な解決ではないのでは……?と思ったのがわたしがもやもやを抱いた正体だと思う。

女だから、男だから、家事ができるできないなんてのはナンセンスで、できないなら外注するなり、他人に頼ったっていいのだ。そういうサービスだってあるんだから、それらを利用しながら、自分らしくいられるならそれでいいじゃないか。

ここまでは共感していたし、素晴らしいなって思っていたけど、一緒にいるために結婚して家事を全部やってもらう、となるとそれはまた話が違ってくるのでは?という違和感を抱いてしまった。

これまで相手はプロだから、お金を払っているから、と頼めた下着の洗濯なども、今度は夫だからで無賃金ですべて任せるというのはまさしく”愛情の搾取”ではないだろうか。

この男女逆バージョンが今の多くの家庭の現状なのだと考えると、安易にその終着でよかったのか?という疑問が残る。

このドラマが支持されたのは、「わたしだって家事とか全部やってもらいたい!」という女性の気持ちも少なからずあるのではないだろうか。だとしたら、その気持ちはめちゃくちゃわかる。

新しい夫婦像として打ち出されたのがメイとナギサさんなのだと思うが、性別逆転しただけの現代社会の夫婦像が目新しく映るくらい、メイとナギサさんのような夫婦はほとんどありえないことで、それほど現代女性は追い詰められているのか、と思ってしまった。

 

いろいろ述べたが、多部ちゃんはキュートだったし、衣装もめちゃ可愛かったし、ナギサさんに癒されもした。

おじキュンあたりのワードがいまいち刺さらなかったので、シンプルにわたしの嗜好に合わなかっただけだろうな、という気がする。

自分の価値観のアップデートがこのドラマに追いついてない部分もあるのかな、と思った部分もあるので、この作品が良くなかったわけではないし、スペシャルも近々見るつもりだ。

だけど個人的には最終回に判明するメイの上司夫婦のほうが好きだったかな、という印象でした。

 

「私の男」感想 何にもなれなかった彼ら

 

私の男 (文春文庫)

私の男 (文春文庫)

  • 作者:桜庭 一樹
  • 発売日: 2010/04/09
  • メディア: 文庫
 

 

久しぶりの読書は待ち時間がやたら長い皮膚科の待合室でのことだった。

わたしは暇つぶしの主体がスマホになってから読書がめっきり苦手になってしまっていた。

読書が苦手というか、本に没入できるほどの集中力がなくなった。

そんななかでも読書欲そのものはあまり衰えておらず、本は買うのになかなか読めずで積み本ばかりが溜まっていく日々で、「私の男」は直木賞を受賞した当時ではなく、だいぶ落ち着いたころに購入してそのままになっていた一冊。

そもそもわたしの蔵書のなかで一番美しい本は、同じく桜庭一樹作の「少女七竈と七人の可愛そうな大人」だと思っている。あれは、中学のときに表紙に一目惚れした。そのあとも桜庭作品をしばらく読み漁った時期がある。だから、桜庭一樹の文章って読み慣れているのもあって、物語に集中できるか不安になりながら表紙をめくったものの何の心配もなかった。

作家、というか、作家の文章との相性もあるのだろうと思う。物語の内容ではなく、その作者の文体との相性というか。学生時代とかなら、多少相性の悪い文章とも体力と勢いで読めたけど、読書力(仮)が衰えた今、慣れている相性のよい文章だから読みやすいのもあっただろうな。と思う。もちろん直木賞受賞作という作品そのものの魅力が第一として。

そういえば、最近断念した本ってわたしが初めて手を出す作家ばかりだったな。という発見。

 

そんなわたしの最近の読書事情はさておき。

さて、多少のネタバレも含みます。

 

「私の男」の一番好きなシーンは実は冒頭の、主人公花の結婚式前夜、私の男、淳悟が傘を盗んで花を迎えにくるところだ。あのシーンひとつで、花との関係と淳悟の人となりがわかるし、たぶん本編のなかで一番鮮やかな場面だから。

あとはなんとなくモノクロチックな、うすいベールを被ったような本心の見えない印象の場面が続く。でもそれがあってるから不思議だと思う。

原作では各章の語り手が変わる。意外だったのは、ただの名前があるモブ、むしろ花が社会に紛れ込むための道化にすぎないと思っていた、花の夫となる尾崎美郎視点の話があったことと、この尾崎も拗れた、まともだけれどまともじゃない人だったこと。破れ鍋に綴蓋じゃないけれど、花と結婚するのに、まあ、そういう人だからだなあという感じ。この人だから、花は一見、何の変哲もない夫婦になれる。それが幸せかはわからないけれど。

 

 

私の男

私の男

  • 発売日: 2015/04/02
  • メディア: Prime Video
 

 

「私の男」は映画も見た。

映画を後にしてよかったと思った。たぶん映画を観てからではわたしは本を読まなかった。あの文章に触れられたのはよかった。

観る前にキャストを確認して、原作の印象から、浅野忠信はなんかイメージと違うな、と思っていた。もっとヒョロッとしていて、もっと立ってるだけでダメさと色気が漏れ出てるみたいな感じの人の印象があった。見始めたら全然気にならなかった。淳悟だった。

あと二階堂ふみは何なんだろうな、ああいう影があって掴めないけれど天真爛漫ぽさもある女の子をやらせると右に出る者はいないみたいな。ピアスを舐めてる場面、最高に小町さん視点で、大嫌いになれる魅力があった。大嫌いになれる魅力って変な言葉だけどこうとしか言えない。

近々観ようと思っている「劇場」の監督のトークをたまたまラジオで聞いたときに言っていたけれど、映画というのは原作が誰視点であろうが、映画として作品をつくると第三者視点の物語になってしまうという。たしかにそう。そうじゃない作品もあるだろうけれど、だいたいそう。

「私の男」も本来なら章によって語り手が変わるけれど、映画は当然第三者視点になる。でもピアスのシーンは、アラサーの女であるところのわたしが自分を一番重ねやすいという点もあるだろうけど、小町さん視点で、花のことが憎くてたまらなくなった。何なんだろうな、二階堂ふみ

あと、原作では現代の花の結婚前夜と結婚式、その後から始まって、過去へと遡る形で、花と淳悟の関係が描かれていく。それが映画では時系列順になっていた。まあ、そのほうが分かりやすいのかもしれない。だけど、そのせいで映画の冒頭はちょっとキツかった。

花の罪のシーン、原作とセリフがちょっとずつ違うのだけれど、「そんなの神様が許さないんだよぉ!」に対するアンサーが「わたしが許す!」なのがあまりにも強かった。

淳悟と花は、家族で、親子で、男と女で、そして、そのどれにもなれなかった。

だけど、淳悟にとって花は神そのものだったかもしれない。花にとってもきっとそうだった。ただ淳悟は花の「私の男」だけれど、花は淳悟だけの女じゃなかった。いつかは離れることを互いにわかっていて、花はそうなっても生きていけるけれど、淳悟は無理だった。たぶん淳悟はそれも含めてわかっていた。家族も子も女も失った淳悟は花の前から消えるのは必然だったと思う。

日本の映画はたまに変な演出をするよな、というシーンがあったけれど、あの瞬間をもし、幸せと呼ぶのなら淳悟は幸せだっただろうと思う。花も。

彼らの幸せがそのさきにもあったのかは知らない。

淳悟がどうなったかも、花が映画の結末のあと、幸せになれたかも。

何もわからない。

彼らは、家族で、親子で、男と女で、でもそのどれにもなれなかった。

それでも、家族で、親子で、男と女で、この世のなかで互いに唯一の存在だったのだけは確かだ。